先日のブログで書いた
「『ワールド・カフェをやろう!』(序章~第2章)」より。
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●引用 その1「ワールドカフェが必要とされる生活環境の変化」
①コントロールからコラボレーションへ
②相互依存関係の複雑化
③「教える」から「学ぶ」へ
④指示命令からダイアログへ
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「①コントロールからコラボレーションへ」の事例として、
「志村、後ろ、後ろ」と「絶対に押すなよ」の違いを、twitterでのやりとりで理解しました。
※ありがとうございました。> Tanaka( @sanbonsugi )さん。
まだ、自分が小学生の頃、不況の波も押し寄せていなかった頃のこと。
ドリフターズが、アフリカの秘境の探検隊や、朽ちた屋敷でのお宝探しなどのコントで、志村けんを残して、みんなが別々にお宝を探しに。すると、残された志村けんの後ろに宝物を持ったオバケが出てきて、会場の子どもが「志村、後ろ、後ろ」って大絶叫する。志村けんが後ろを振り向くと、オバケは隠れる。その繰り返し。
宝物を見つけるという一つの目的に向かって、意外に答えは近くにありながらも、みんなが思い思いに個別に行動しながらもチームワークがあった時代。
最終的に宝物を獲得できなくても、みんなで一つの目的に向かって、個性を発揮しながら楽しんでいて、結果を果たせなくてもプロセスを共有することにも価値があった時代。
※「~の価値があった時代」というより、「~の価値が許された時代」が正しいのかもしれません。
そして、今。バブル崩壊後から熱湯コマーシャルとかで、ダチョウ倶楽部が「絶対に押すなよ」と言い始めて、未だに、めちゃイケでもやってる定番のネタ。
多様性を認めたアプローチが必要とされながらも、効率化が求められた結果、一つの答えに向けた前進しか許されなくなった、この数年間。
みんなが、その先にあるのは熱湯風呂だとわかっていながら、一列に並んで先頭のメンバーが「絶対に押すなよ!」と言って、後ろのメンバーが押す。みんな、その先にある答えが違うとわかっていても、効率化が求められる中、正しいことを正しいと伝える時間も得られず、間違った方向に前進し続ける。
それを一番先頭のメンバーが「絶対に押すなよ!」とアイコンタクトをして、自分が犠牲になることで間違いであることをみんなに知らせる。熱湯風呂に落ちた時には、みんな同じ方向に向かっていた故に、すぐには軌道修正できないジレンマ。
どちらがいい or どちらが悪いというレイヤーでの判断はしませんが、一人ひとりが個人としても輝いて、チームとしても輝き、あらゆる可能性を感じられるのは、やっぱり、「志村、後ろ、後ろ」の時代だと思った次第。
自分を犠牲にして、みんなを助ける「絶対に押すなよ!」という人間味溢れた優しすぎる笑いを上回る、新しい「笑い」が待ち遠しいです。
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